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2022.7.25

スタッフブログVol.45 訪問介護ステーションダレタメ

訪問介護ステーションダレタメ白坂です。

前回お伝えしました

ソフトバンク株式会社代表取締役 会長兼社長執行役員「孫正義」のこと

既にもう皆さんご存じかと思いますが、改めて見ていただけるとありがたいです。

「無番地」で生まれ育った孫正義の少年時代

佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で生まれた孫さんは、豚や羊と生活をともにするような不衛生で貧しく、また朝鮮人であることへの差別をも受けながら幼少期を過ごします。

これは孫さんが20歳を過ぎて役所へ戸籍を取りに行った際に知ったことだそうですが、自分の戸籍上の住所が「無番地」と表記されていたそうです。


高校を中退し、アメリカの超名門大学であるカリフォルニア工科大学へ留学

高校生になった孫さんはあるとき、日本マクドナルドを築き上げた名経営者である藤田田さんの著作「ユダヤの商法」を読み、とても強い感銘を受けました。

夏休みに一時帰国した際に、どうしても藤田田氏に会いたいと切望するようになり一週間、毎日会社を訪ね、その熱意にほだされた藤田田氏は15分の面会で、「これから何を勉強すればいいか?」と聞かれ「アメリカに行って勉強するならコンピュータしかない。コンピュータだけ勉強してらっしゃい」とアドバイスしたそうです。

その後、発明して特許を取得し大金を取ろうと50個の発明アイディアから選んだ「音声付き自動翻訳機」をシャープに売り込んで1億円をゲットします。

これを元手に、後のソフトバンクの前身となるソフトウェア開発会社「ユニソンワールド」を設立し、1980年に大学を卒業して日本へ帰国すると、福岡県博多区で事務所を構えます。

 その後、当時は日本で最大のソフト会社である「ハドソン」と独占契約を結ぶことに成功すると、その業界でメキメキと頭角をあらわすことになります。

ユニソンワールドはその後「日本ソフトバンク」、そして「ソフトバンク」と社名を変え、現在では1兆円を超える利益を上げる大企業へと変貌しました。

孫正義の「人生50年計画」格言

「二十代で名乗りを上げ、三十代で軍資金を最低で一千億円貯め、四十代でひと勝負し、五十代で事業を完成させ、六十代で事業を後継者に引き継ぐ。」

                  インターネット「孫正義の生立ち等」より抜粋