2023.8.25
スタッフブログVol.70 訪問介護ステーションダレタメ
今回「豊臣秀吉」の事をブログにしました。
今NHK大河ドラマ「どうする家康」放映してますネ!みなさん観てますか?
私は途中まで観ていましたが、最近は観れていません。
徳川家康役を松本潤がやっています。
家康は、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城において生まれました。幼名は竹千代。
に対して農家の生まれでサルと言われた秀吉がなぜ、天下を取れたのか、ちょっぴり気になりまして 調べてみました。
豊臣秀吉は農民の家で生まれます。父が早くに病死し、母の再婚相手と折り合いが悪くなったため、14歳の頃に侍になるために家を出たと言われています。
豊臣秀吉は18歳の頃、出世するには天下を取れる武将の下に付くのが良いと考え、織田信長のもとで働くことになります。その後は持ち前の人懐っこさと、冷静な判断力を活かして、様々な場面で活躍をし、豊臣秀吉は織田信長の右腕と言えるほどに成長しました。
豊臣秀吉は、顔が赤っぽくて目が出ていて身長も低かったことから「サル」と呼ばれていました。
朝鮮使節が日本に来た際も、豊臣秀吉のことを「顔が小さくて猿のようだ」と語っていることから、日本人のみならず外国人から見ても、猿面だったと言うことが分かります。
また豊臣秀吉本人も自分のことを「容姿は醜く、五体も貧弱だ」と評価しています。ちなみに織田信長は豊臣秀吉の容姿を「ハゲネズミ」と評しています。
「人たらし」といわれるほど人心掌握に長けていた
人心掌握に非常に長けており、様々な場面で上司や部下の心を掴み、戦国の時代を優位に渡り歩きました。
上司である織田信長に対しては、常に辛い仕事を引き受け信長が楽になるように努め、部下に対しては、厳しく当たることなく優しい言葉をかけて奮い立たせました。
「麦飯」が大好物だった
貧しい農家で育った豊臣秀吉は質素な料理を好んで食べていました。
天下をとった後は事実上日本で一番偉い人になったので、贅沢な食事をすることが多かったのですが、それでも「貧しいころに食べた麦飯」が一番おいしい食べ物だと語っています。
「母親思いだった秀吉」
豊臣秀吉は非常に母親思いだったと言われています。天下をとり、多忙な毎日の中でも母親には定期的に手紙を出し、健康を案じていました。
母親の危篤を聞いた際には全ての仕事を取りやめ、すぐさま帰京しましたが、臨終には間に合いませんでした。このことにはかなりのショックを受けたようで、しばらくの間まともにしゃべることが出来ない程でした。
「天下統一する前は冷静な性格で先見性を持っていた」
豊臣秀吉は天下統一する前は冷静な性格で先見性を持っていたと考えられます。というのも、豊臣秀吉は18歳の頃、まだ大きな力を持っていなかった織田信長を主君として選びます。そこで織田信長が天下統一することを信じて、誰よりも仕事をして出世し、それが後に天下統一することに繋がることになります。
戦においても、水攻めや兵糧攻めを用いて、出来るだけ死人が出ないように努めました。これも自分が天下統一した後に、国の力を保つための作戦だと思われます。
「天下統一後は傲慢になり暴走する」
天下統一後の豊臣秀吉はそれまでと一転して、傲慢になり自分勝手な性格で暴走します。諸説ありますが、甥である豊臣秀次を後継者にさせたくないがために、豊臣秀次とその側近全てを処刑します。
他にも、茶道に関する考えの違いから千利休を切腹させるなど、天下統一後の豊臣秀吉は、人の命を出来るだけ大切にしてきた、以前の豊臣秀吉とは大きく変わっています。
豊臣秀吉の功績
功績1「墨俣城を一夜で完成させ大きく出世する」
豊臣秀吉の有名なエピソードとして「墨俣一夜城」と言うものがあります。
織田信長は、現在の岐阜県である美濃を攻めるため墨俣に城を作ろうとしますが、付近ではたびたび戦が発生するのでなかなか城が完成しませんでした。そこで豊臣秀吉が川の流れを利用して木材を輸送する案を思い付き、わずか数日で城を完成させることに成功しました。
実際には一夜ではなく数日かかっていますが、あまりにあっという間に完成したため「一夜城」と言われています。豊臣秀吉はこれをきっかけに大きく出世し、織田信長からの信頼も厚くなったといわれています。
功績2「天下統一をし戦乱の時代を終わらせる」
豊臣秀吉は、織田信長の死後、次々と全国の有力大名を従わせることに成功します。1585年に関白を命じられ、太政大臣となったことから日本の権力において頂点に立ち、天下の統一を成し遂げたことになります。
これにより日本の戦乱の時代を一時的に終わらせ、平和をもたらしました。また太閤検地を行い、農民には土地の所有を認めるかわりに年貢を収めさせる事にし、刀狩を行うことで反乱なども起きないようにしました。
※太閤検地・・・・全国の田畑を測量して、農作物の生産高を把握し、納めるべき年貢の量を定めた政策
秀吉は、全国どこでも同じ測量結果を出せるように、バラバラだった単位の基準を定めます。1尺を30.3cm、1間を6尺3寸、枡は「京枡(きょうます)」を使うなど、単位ごとに決まりを設け、検地では必ず同じ道具で測量するように命じました。
※刀狩・・・・当時は個人同士のトラブルは武力で解決する風潮があり、死人の出るいざこざが多くありました。そのため、豊臣秀吉は武器の使用を停止するために刀狩令を出したとも言われています。